社会に届きにくい小さな声を拾って、世に問い続けたい
日本を外から見てみたい――。
そんな思いで、日本の大学を2年で中退。ロンドン大学に進学したことが、報道ディレクターとして第一線に立つ、青木さんの今につながっている。
ロンドン大学で出会ったのは、ヨーロッパ、中南米、中東から同じように留学してきた同年代の学生たち。ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦を経験した友人から、マフィアの父を持つコロンビア人の友人まで、まったく違う環境で“日常”を送ってきた彼らの話を聞き、「世界には知らないことがあふれている」と大きな衝撃を受ける。
「テレビ、新聞、出版と、世に情報を“伝える”仕事に就きたいと考えたのは、ロンドン大学での経験があったから。さらに、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロで世界中に流れたショッキングな報道を見て、映像の力を実感。どんな言葉を尽くしても、あのインパクトに勝るものはない。そう思い、映像とともにニュースを伝える“テレビの報道”を志望するようになりました」
入社すると、2週間の研修を経て、報道番組『WBS(ワールドビジネスサテライト)』の担当ディレクターに配属される。希望していた部署ではあったが、仕事のハードさは想像以上だった。
「新人ディレクターはまず、街の人に突撃取材する街頭インタビューを任されます。聞く質問も決まっているし、数を当たれば必ずコメントがとれるので、インタビューとしては一番簡単。しかも、度胸がつく訓練にもなって最適なんです(笑)。1年目はとにかく仕事に慣れるため、取材に頻繁に足を運びます。朝7時からロケに行き、取材を終えて会社に戻ってくると、夜11時のオンエアの時には眠くて眠くて…。オンエア後の振り返りミーティングを終えて帰宅すると、深夜2時は過ぎているという毎日でした。記憶がないくらいの大変さでしたが、それぞれの現場でどんな映像を撮るべきか、どんな言葉を引き出すべきか。考えて行動する瞬発力、判断力を鍛えられましたね」
入社2年目になると、厚生労働省、都庁、宮内庁などの担当記者になり、ニュースになりうる情報を日々入手する役割を担う。記者クラブに常駐しながら、誰からどんな情報をとってくるか、撮影のないところで動き続けるのが青木さんの仕事だった。
そしてこの年の記者としての仕事が、報道の意味を考えさせられるターニングポイントとなる。
2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の取材で、災害の現場に初めて足を運んだのだ。
「家がなくなった、大切な人を亡くしたなど、つらく悲しい経験をした人にこそマイクを向け、話を聞くのが私の仕事でした。『ここで人が死んだんだぞ、何を撮っているんだ』『お前らなんて来るな』などと言われることは日常茶飯事。そんな中で、被災した方たちの絶望的な状況やつらい体験をえぐり出すようにして聞いていかなければいけません。報道しなければ事実は伝わらない、という思いと、目の前にいる人々に拒絶される苦しさの間で、葛藤と矛盾を感じていました」
一方、「この状況を知ってほしいから(報道を)頑張ってね」「寒い中、ありがとう」と声をかけてくれる方もたくさんいた。現地におにぎりが届いたり、全国から毛布が集まってきたりと救援物資を目にしたときにようやく、社会を動かす報道の力を実感したという。
「不特定多数の視聴者に伝える仕事をしているのだから、『知ってほしい』と思うことをどんどん発信していきたい。中越地震の取材を通して、その思いはいっそう強くなりました。当時、厚生労働省担当だったため、労働環境について知る機会も多く、そのつながりから“働く”をテーマにした特番を制作したことがありました。手がけたのは、ベンチャー企業社長から会社員、フリーターまでいろんな人を番組に呼んで“働く”“仕事”についてトークを進める番組。人生の大半を費やす“仕事”について、学生がいろんな働き方を知る機会があれば、大好きだと思える仕事に出合えるチャンスも増えるかもしれない、企画の発端はそんな気持ちでした。以来、就職活動は、継続して取材しているテーマになっています」
4年目には、息子を妊娠すると同時に、夕方のニュース『速ホゥ!』のディレクターになる。毎日届く新しいニュース素材を編集し、ニュース原稿を書く分刻みの生活に充実感でいっぱいだった。
一見、公私ともに順調と言える状況だったが、「出産によって不自由さを感じるようになるのでは」と不安は大きかったという。
「当時、報道・スポーツ・制作の現場にいながら20代で出産する女性はいませんでした。大きいおなかを抱えて走り回っている人は私しかいませんでしたし、仕事がこんなに面白い時期なのに、今現場を離れたら、同僚たちから置いていかれてしまうんじゃないか、復帰しても思いっきり仕事ができなくなるんじゃないか…そんな思いもありました。子どもも欲しいし仕事も続けたいなら、前例がなくても何でも、やるしかない。そう吹っ切れてからは、母親になることで得た視点を仕事に生かしていこうと、迷いなく思えるようになりました」
実際に母親になると、見える世界は一気に広がっていった。あらゆるニュースに当事者意識を持つようになり、毎日起こる事件や事故に対して「自分の子どもに同じことが起こったら」という視点が加わるようになったという。
「人の痛みが、リアリティをもって迫ってくるんです。だからこそ、このニュースを伝える上で、この表現が本当に適切なのか、もっと伝えるべき事実があるのではないか、もっと違う構成にすべきではないか…などと、さらに強く思うようになりました。現在も、夕方のニュースのディレクターとして、さまざまな事実を切り取って伝えていく側にいますが、正解のない仕事だけに毎日自問を繰り返しています」
報道の仕事に携わって10年以上。報道とは、「小さな声を大きくして届ける仕事」だと青木さんは言う。
「病気で困っている人や災害の現場で苦しんでいる人など、この社会には、報道しなければ誰にも聞かれないまま消えていく声がたくさんあります。一人でも多くの小さな声を聞いて伝えていくのが報道の仕事だと思うし、それを続けていきたい。知らなかった事実にぶち当たり、世に問うことができる面白さが、この仕事にはあります。知りたいという好奇心が、今までもこれからも、私の原動力ですね」
16:52スタートの生放送ニュースのオンエアに向けて、映像素材を編集する。日々入ってくるニュースをどう構成するか。オンエアまで時間との闘いだ。
生放送中、どの映像をどのタイミングで放送するか、チームメンバーのディレクターに指示を出す。
青木さんのキャリアステップ
STEP1 入社1年目、WBS担当ディレクターになる
研修期間は2週間。4月中に配属が決まり、OJTが始まる。「取材に行ってきて」と突然現場に放り出されるような厳しい環境だったが、「仕事を覚える上で、現場経験を積むことが何よりも大切。当時は大変でしたが、半年頑張れば、仕事の全体像がわかるようになって一気に面白くなっていきました」。
STEP2 入社2年目、厚生労働省、都庁、宮内庁などの担当記者に
この時期に「働く」をテーマにした特番の制作にかかわる。声をあげればチャレンジさせてくれるのが、テレビ東京で働く大きな魅力だと言う。ディレクターと違い、担当の番組を持っていない記者は、企画書を書いて各番組に売り込みに行き、内容が通れば、番組内でコーナーを持つことになる。「面白いね、と賛同されれば、オンエアに向けて取材・撮影などの素材づくりが即始まります。自分が企画した内容に関しては、映像の構成・編集まで手がけるディレクターと同じ仕事を任されるので、裁量権はすごく大きい。責任とともに達成感があります」。
STEP3 入社4年目、夕方のニュース担当ディレクターに。その後、5カ月間の産休・育休を取得
毎日のニュースの取材、構成、原稿書き、映像編集をオンエアの数分前までやるような多忙な日々。当時、報道部にワーキングマザーはほとんどおらず、出産1カ月半前まで現場で働いていた青木さんはかなり珍しい存在だった。「編集を終えたばかりのVTRを持って社内の廊下を走って移動しては、周りのスタッフに止められていました(笑)」。
STEP4 入社5年目、ディレクターとして復帰後、役員秘書に異動になる
4月1日にフルタイム勤務で復帰。数カ月後、「時間的に余裕のある部署だから」と役員秘書担当になるが、ディレクターの仕事を続けたかった青木さんにとっては不本意な異動だった。だが、時間に余裕があるからできることをしようと、企画書を作ったり、ディレクター時代はなかなか会えなかった社外の人に多く会ったりと、情報収集に力を入れていった。担当役員に「テレビ局員なのだから、どの部署にいても企画書は書ける」と背中を押されたことも大きかったという。「いずれまた報道に戻るんだ、そのときに使える人材になっていなくては…と必死でした。やりたい仕事をやるために準備をしておこうと、就職活動番組の企画も立案。のちに報道の現場に戻ってから、毎年制作する番組になりました」。
STEP5 総務省、宮内庁の担当記者、BSの新番組担当ディレクターを経て、入社11年目に現職へ
夕方ニュースの『NEWSアンサー』のディレクターとして、ニュースのネタ出し、取材先の選定など、ディレクションを手がける。これまで出会った人、経験したことなど、自分の中にある引き出しの多さが、仕事に直結する。「オンエアを見て満足することなんてほとんどありません。映像の順番を逆にすればよかったとか、反省点を挙げればきりがない。だからこそ、ずっと飽きずに、新鮮な気持ちで続けられているのかもしれません」。
ある一日のスケジュール
青木さんのプライベート
2014年夏、家族でフィリピンへバックパック旅行。水道も電気もない(夜3時間しかともらない)アポ島という離島に滞在し、きれいな海を満喫。
夏は海、冬はスキーと、家族全員アウトドア派。写真は、2013年の年越しに長野県・野沢温泉にスキーに行った帰りに立ち寄ったジャンボ餃子店。
ライブに行くのが好き。家族や友人と出かけ、いいリフレッシュになっている。
取材・文/田中瑠子 撮影/早坂卓也