お客さまに寄り添う気持ちを、企業再建を担った会長に教わった
日本航空は、小林さんにとって憧れの会社だった。9歳までアメリカ・ニュージャージー州で暮らし、日米の往復でいつも日本航空に搭乗していた小林さんは、空港や機内で話をしてくれる日本航空のスタッフの対応に「こんな親切な人たちがいる会社で、いつか働きたい」とひそかに思っていたという。
入社後に配属されたのは国内線の予約センター。予約受付業務を担当するグループ会社、株式会社JALナビアに出向になり、2年間、お客さまからの電話に応対する業務を担当した。
「新入社員の多くは、お客さまと直接応対する部門に配属になります。1日に多くのお客さまとお話をしていると、会社に対する厳しいお言葉をいただくこともあり、日本航空の安全に対する取り組みや商品・サービスに対する社会の期待の大きさを実感する毎日でした」
3年目には、関西国際空港での国際線チェックイン業務担当となり、お客さまに寄り添うサービスとは何かを実践の中で学んでいった。
「お客さま対応の中でも忘れられないのは、弊社に非があるのにもかかわらず、しっかりと関連部に報告をしなかったことが理由で、ある常連のお客さまを怒らせてしまったことです。お客さまが空港にいらっしゃるたびに謝罪し、数カ月後に『一生懸命な気持ちが伝わった』とお言葉をいただくまでになりました。お客さまのお話にしっかりと耳を傾けることの大切さを学んだ経験でした」
その後、異動した先はIR部(現財務部)だった。会社の業績を分析し、投資家への説明責任を持つ部門。
「決算書の読み方もわからず、必死で勉強する毎日。でも、その大変さよりも、決算を出すたびに下方修正するような状況が続き、投資家に丁寧な説明をしても評価されない状況が一番苦しかったです。報道では、日本航空の業績に関する記事が連日掲載され、そのたびに、投資家からの質問の電話が社内に鳴り響いていました。電話をとるのも怖い。そんな時期もありました」
日本航空の経営破綻という大きなニュースが全国を駆け回ったその日、債権者の方々に会社更生手続き開始を伝えるため、資料の準備をしていたという小林さん。これからどうすればいいのだろうという不安の中、数日後に上司に呼ばれ告げられたのは、秘書部への異動だった。会社再建のため、2日後に会長に就任することになった稲盛和夫氏(京セラ株式会社創業者)の秘書業務を担当することになったのだ。
「細かな業務内容もわからないまま、翌日には秘書部に配属され、さらに翌日、稲盛さんがJALに会長としてお越しになりました。会長、社長をはじめ、経営陣が会社再建のために日々重大な判断をしていく様子を間近で見られたことは、本当に貴重な経験でした」
稲盛氏の社員一人ひとりへの愛情の注ぎ方、お客さまへの真摯(しんし)な対応に触れ、仕事観が変わったと話す小林さん。会長自ら、お客さまから届くたくさんの叱責や励ましの手紙にすべて目を通し自分で返事を書くなど、お客さまに寄り添うとはどういうことかを、背中で見せてくれるような存在だったという。
「日本航空の企業理念である『全社員の物心両面の幸福を追求する』を自ら先頭に立って体現していたのも稲盛さんでした。会長に就任されて数カ月たったころ、社員食堂で一緒にお昼ごはんを食べていると、『これから銀行にお金を借りに行くんだ』と話し始めたことがありました。京セラで40年以上黒字経営を続けていた稲盛さんが、『君たち(従業員)のことを守るためなら、何度頭を下げたってかまわない』と、ごく自然に口にされるのです。これから会社はどうなってしまうんだろうと不安でいっぱいの社員にとって、会長のその言葉が、どれほどの勇気になったか。涙があふれてきて、こんなリーダーについて行きたいと思ったのを、今でも鮮明に覚えています」
現在は、1児の母として時短勤務をしながら、安全推進本部でグループ会社全体の安全意識醸成を手がける小林さん。社外の有識者からなる安全アドバイザリーグループとともに安全施策を考えたり、研修施設である「安全啓発センター」の運営に携わったり、JALグループ全体の安全意識を高めるために日々、何ができるかを考えている。御巣鷹山の事故(※)から30年たった2015年夏には、全社員が参加できる安全講話を開催。事故に携わった方々の話を直接聞き、あらためて、事故を風化させず、当時の教訓を胸に刻む機会をつくった。社員の心をひとつに「安全への思い」を再確認し、全社員一丸となって安全を守っていく。
※1985年8月12日に、日本航空123便が御巣鷹山の尾根に墜落した航空事故。
16年4月にはフルタイム勤務に戻り、日本航空の魅力を社外に伝える仕事にも携わっていきたいと話す小林さん。経営破綻から再建に至るまで、激動を経験したからこそ、「社会に必要とされる会社であり続けたい」という強い思いがある。
「お客さまが困っていらっしゃったら、できる限りのことをして差しあげたい。お客さまの気持ちに寄り添い具体的な行動で示せるような会社でありたい。そう考える社内風土は、再建の過程でますます強まりました。さらに女性活躍推進の面でも、女性が長く“活躍”できる組織づくりを進め、社外に示せる会社でありたいと、全社的な取り組みが始まっています。女性の働き方をはじめとする多様な活躍を推進すべく立ち上がったプロジェクト『JALなでしこラボ』や、女性社員による新しい価値を提案するための『顧客価値創造プロジェクト』などさまざまな活動があり、提案内容が事業として動く日も近いと思います。子どものころから大好きだった会社を、自分の手でもっとよくしていきたい。その思いを持ち続けられているのは、とても幸せなことだと思います」
安全推進本部運営グループのメンバーと、新たな安全施策について話し合う。整備部門や運航乗務員、客室乗務員などさまざまな部署出身者が集まっており、多様な意見が出るのが刺激的だ。
安全アドバイザリーグループとの会議で出た提言を資料にまとめ、メンバーと共有する。
小林さんのキャリアステップ
STEP1 入社1年目、予約センター勤務(東京)を経て、関西国際空港での国際線チェックイン業務を担当
新入社員教育を経て、株式会社JALナビアに出向。予約センターでの国内線航空券の予約手配業務を担当した。「『今日は○名、一人でも多くのお客さまのご要望にお応えしよう』など目標設定しながら、お客さま対応に慣れるのに必死でした。さらに、初めて地元・関西を離れホームシックに。大変な新人時代でしたね」。3年目には、関西国際空港での国際線チェックイン業務に携わった。
STEP2 入社3年目、IR部(現財務部)に配属され、国内・海外機関投資家向けのIR業務に従事
経理が算出した数字を分析し、投資家にわかりやすく説明する仕事を担当。専門知識を猛勉強した甲斐(かい)があり、海外機関投資家との面談のため、初の海外・ヨーロッパ出張を経験した。「決算が終わると、会社にお越しになる投資家の方々に向けて、業績に関する細かな経緯や中長期計画の報告をしていきます。会社全体の業績や戦略について説明することで、客観的、論理的に話を組み立てる力が鍛えられました」。
STEP3 入社5年目1月、秘書部に異動し、稲盛和夫会長の秘書業務を担当
2010年1月19日に日本航空が破綻。会社再建のため、京セラ株式会社の稲盛和夫名誉会長が会長に就任し、その秘書業務を担当。「お客さまから厳しいお言葉を頂戴したとき、稲盛さんに『お客さまを疑ってかかるのではなく、まずはお客さまが何を望んでいるのかを感じ取る感性を磨きなさい』と言われ、はっとしました。気さくにお話ししてくださる方で、何気ない言葉に何度もはっと気づかされる日々でした」。
破綻の1年後には、「フィロソフィー手帳」が社員一人ひとりに配布された。「社会に必要とされる会社であり続けるために、社会に対して、お客さまに対して感謝の気持ちを持つこと」が社内で共有されるようになり、社員の意識が少しずつ変化していくのを肌で感じたという。
STEP4 入社8年目に2年間の産休・育休取得後、安全推進本部運営グループに復帰
2年間の産休・育休を経て、2015年4月に現部署に時短勤務で復帰。16年4月からは朝8時半から17時半までのフルタイム勤務になる予定だ(日本航空では、朝7時から30分刻みで出勤時間を選べる)。「今の部署では、退社の時間になると『もうすぐ(保育園の)お迎えの時間だけど、帰らなくて大丈夫?』などと誰かが必ず声をかけてくれます。人事部が主催するワーキングマザーのランチ会があったり、女性社員向けの研修が充実していたりと、全社を挙げて、女性の活躍推進の取り組みが進んでいると感じます。在宅勤務も推奨されているので、柔軟な働き方を模索していこうと考えています」。
ある一日のスケジュール
小林さんのプライベート
2014年11月、実父の還暦祝いで、家族全員で伊東に旅行した(右から2番目が小林さん)。
週末は、娘の好きなお菓子やケーキを作る。「一緒にできることが増えてきてうれしいです」。
2014年3月、子どもを通じて仲良くなった同じマンションのママ友と熱海旅行へ(右端が小林さん)。悩みを相談できる貴重な存在だ。
取材・文/田中瑠子 撮影/鈴木慶子